月へ帰る日

地球での出来事

「火」が消えた

 

長い間灯し続けてきた火が消えてしまった

 

いろいろありながらも、なんとか守ってきた火が

 

考えてみれば、社会に出てからずっと「何者か」になりたくて、身の丈以上に感じる役割を演じてきたような気がする。身の丈に合わない役割も続けていれば、そのうち自分の身の丈に合ってくるのだろうと信じ、「何者」かになるために継続してきた。常に焦燥感と不安感を持ちながら。

しかしある程度歳を重ねると、自分の傾向や、得手不得手、またある分野での能力の限界が見えてくることがある。そして自分が望んでいた「何者か」にはなれないことに気付いていく。そうなった時、それを認めながらも、贖い抵抗し続けて生きていくのか、それを諦めて生きていくのかを選ばなければならない。

 

私は後者を選んだ。

 

自分が思い描いていた「何者か」が自分に向いていないであろうことは昔から分かっていたような気がする。それでも積み重ねていけば、次第に慣れ、成長していくものだと思っていた。それが大人になるという事で、人として全うな考え方だと思っていた。

しかしいつまだ経っても、どれだけ経験を重ね成長し、多少ばかりの地位を得ても、身の丈に合うような感じは訪れなかった。

立場が変わることにより、求められる基準が上がっていくために、そのような感じが続いていた訳ではなく、スタート時点から感じていた身の丈に合わない感じがずっと続いてきた。それでも身の丈に合っているように見えるよう努力はしてきたが。

 

決定的に足りないもの、努力では身につけられなかったもの、がある。

 

そしてその時の自分には絶対に必要なものでもあった。数年間その足りないものに気付きつつも、それを受け入れることに葛藤していた。

もしそれを自分が受け入れてしまったら何もかもが終わってしまう、音を立ててて崩れてしまう恐怖、不安。それを受け入れずに、自分の身と心を削りながら足りないものを補って生きていく苦痛。立場。地位。心と体。家族。収入。僅かながらのプライド。様々な感情が入り交じり、更に混沌としてゆく。

 

そこに正しい答えなんか無かった。

 

その時の立場、体調、精神状態、環境、気候、そして空気感すべてが複雑に絡み合い、その時はたまたまその答えを選択しただけだ。

 

結果として私は、社会的な負けを選んだ。追い詰められて駄目になる前に逃げた。

現実的に逃げた訳ではないが、概念的には確実に逃げた。

 

その時は自分の健康と、その健康の上に成り立つ家族の将来を第一に考え結論を出した。今思えば随分と追い詰められた極端な考え方だったと思う。0か100か。すべてを失う覚悟で、「身の丈」でも「何者か」でもなく「ただの自分」になるがために。

 

そしてすべてを吐き出した。

 

 

 

 

結局、私は今以前と殆ど変わらない場所にいる。

 

 

 

 

 

世の中は0か100ではないらしい。

社会は思いつめた私などが考えようもないくらい、色々なバランスの上に絶妙に成り立っている。

これが大人の世界というものなのか。

現実的に多くのものを失うことはなく、精神的に前よりは僅かながら身の丈に合った役割をこなしている。たぶん傍目から見たら120点以上の結果だ。

 

もちろん失ったものだってある。

限定的な範囲ではあるにしろ、これまでの実績(らしきもの)は失ったし、信用も失った。そして音を上げ、放り出したにも関わらず、私の役割の便宜を図ってくれた上に、以前とあまり変わらないポジションを敢えて用意してくれた人達に「魂」を抜かれた。

 

そして火が消えた。

 

以前とあまり変わらない場所にいるにも関わらず、見えている景色は全く違う。世界はゆっくり動き、色彩は薄れ、輪郭もぼやけている。

 

一度消えてしまった火は二度とつくことはない。

 

これで良かったと思うこともあれば、暗闇でずっと涙を流し続けたくなるような気持になることもある。消してしまった後悔ではなく、二度とつくことがない悲しさ、寂しさから。大した火ではなかったかもしれないが、私が私自身を燃やし続けて灯してきた火なのだから。

 

 

人生が終わってしまった訳ではない

再び火をつける時は必ず来る

しかしその火は消えてしまった「火」ではない